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  • 執筆者の写真Frontier Valuation

世捨て人の哲学。ビジネスマンにフィロソフィ

Web版の東洋経済にこのような記事が紹介されていた。


海外企業の中には哲学者を雇う企業も出ているという。

あえて誤解を恐れずにいえば「哲学」というとどこか付き合いづらい、もっときつく言えば世捨て人的なイメージすらある。現実の社会経済とは相容れない理屈の世界といったイメージである。これは間違いかもしれないが。 しかし、「哲学に走ってしまう法学者は学者としては寿命」などという話も聞くので、同じようなイメージを持っている人も少なからずいるのだろう。 一方で、経営の神様と言われた故稲森和夫氏はフィロソフィを説いていた。 フィロソフィは「哲学」であるから、ビジネスに哲学が全く役に立たないかと言えばそれは違うだろう。 近年、コンプライアンスという言葉に縛られることが多くなった。コンプライアンスは法令順守というふうに日本語訳されているが、単に法を守っていればいいかと言えばそういうことではなく、もう少し広くて深い意味があるのだという。 会計の世界、そして評価の世界でもプリンシパルベースの規範が取り入れられるようになってきた。会計でいえばIFRS、評価でいえばIVSなどである。これは本当にものごとの骨格だけを定めていて、どうすればいいのかということはこれを読んだだけではほとんどわからないのである。 なぜ、こうした規範が取り入れられることになったかと言えば、形式主義やルールベースにすると、規範の裏を突いて不正を働くものが出てくるからである。 形式主義、あるいはルールベースだと、要件が明文化されていてそれを守って仕事をすればいいし、やってはいけないと書いてあれば書いてあることに当てはまるようなことはやらなければいい。裏を返せば、書いてあること以外はやっていいとなると、必ず隙をつく人間が出てくる。

例えば「現金を渡してはいけない」というルールがあったとすると、「ギフトカードなら現金じゃないから渡してもいいよね」と考えて行動に移すものが出てくる。 「現金を渡してはいけない」のは、現金を渡すと公正な判断ができなくなるからそういうルールが設けられている場合、ギフトカードでも金目の物を渡せば効果は同じである。 そうなると、穴を封じるために次から次へとルールが書き加えられ、そこにまた裏を突く人間が現れてイタチごっこになるから、プリンシパルベースつまり原理原則から考えましょうというアプローチが必要になる。それが今日”プリンシパルベース”が用いられるようになった所以である。 逆に考えてみれば、プリンシパルベースは非常に怖い世界でもある。刑法は『罪刑法定主義』が貫かれているが、これはあいまいな判断によって罪に問われる人権上の不利益をなくすための知恵である。プリンシパルベースはその対極であり、例えば警察官が見て「これは怪しからん!」と思えば逮捕、起訴できるようなそんな世界である。 ここで、必要なのがフィロソフィ。「哲学」である。物事の本質は何かを考え、自らの行動規範としなければならないからである。残念ながら、日本の社会では、個人、私人、私企業がこうしたことを考えるのが許容されず、我々自身もお上にルールを作ってもらうのを待つのが常態化している。 特に評価の世界に身を置くとそのあたりは痛切に感じる。我々が書いた評価書より、税法の基準で計算した方が平等でしかも安く結果が得られるし、誰がやっても同じ結果が出るのが有難がられる。 とはいえ、世の中万物に有効な指標などなく、個々のものを見て、個別の事情を斟酌しつつ価値判断をしなければならない場面もあるのだが、なかなかそうはいかないというのを痛切に感じるのである。 日本の閉塞感はこの辺にも理由があるのかもしれないが、考動できる人や社会に変わるまでにはまだ時間がかかりそうだ。


京都・哲学堂(写真ACより)

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