■価値のある古民家でもコストだけの判断
先日、民家活用を推進する団体の会合にお邪魔して話を聞く機会があった。 その中で評価の分野にいる人間としては非常に耳が痛い、けれども非常に興味深い話が聞けたので記事にしておく。 古民家に詳しい建築家の方が同席されていて、民家の扱いの現状について事例を交えたお話しがあった。 基本的に現在の尺度で考えると築年数を経た民家は機能的にも現代の新築住宅に比べて劣り、現在の最新の住宅を基準に考えると、物理的にも機能的にも劣化が大きく価値が低いものという考え方が成り立つ。
しかしながら、現在では再現できない工法や希少性が高い資材が使われていることがあり、希少性という観点から見ると相応の価値がある。但し、古材のマーケットは見える化されたマーケットでなく、扱われている品も個性が強いため、相応の"目利き"が見ないとその価値が分からないことが多い。 そのあたりの価値が見落とされて、解体・廃棄のコスト、新築のコストとの比較だけで民家の生殺与奪が判断されていることが多いという。 ■税法上の耐用年数で価値がゼロになる根拠は何か?
建物の価値、特に木造住宅などは税法上の耐用年数である25年でゼロになるというのが不動産の世界では半ば常識化している。日本ではこれが常識であるが、世界の不動産市場から見れば異常である。特に日本のビジネスの慣習として税法上の耐用年数をそのまま疑いもなく準用することが多く、保守的な価値把握が求められる金融機関なども税法上の耐用年数を基準として考えているから尚更"説得力"を持ってしまっている。 このような常識とは裏腹に、日本の木造住宅の実使用年数は約40年弱という統計がある。つまり、実際には40年程度は十分に使うことができるということである。 さらに、使用資材や工法によっては相応の市場価値が残る。また、建物は建物の骨組みなど主構造を構成する躯体や水回りや電気関係などの設備の部分から成り立つものである。一般には設備の方が陳腐化が早いため、リフォームを行えば設備部分の価値の回復が図れる。こうしたリフォームなどの資本的支出を適切に価値に反映すれば、25年で価値がゼロというようなことはないはずである。 ■評価人は目利きであるべきか
となると評価を担うべき人間は目利きである必要があるのではないかと思われるかも知れない。この辺は難しいところである。特に日本で新しい評価システムを作ろうとすると「目利き」という言葉がやたらと持ち出されることが多い。
しかしながら、評価人は「目利き」である必要はないと考える。 目利きといっても狭い世界で成立するマーケットでの目利きであることも多い。そうした場合、一般の買い手はそうしたマーケットにアクセスできその価値が実現できるか(すなわちお金に換えることができるか)という問題がある。 よく聞く話では縁に凹凸がついた10円玉(俗にギザ10とも言われる)はコレクターの間では何倍もの価値があるなどといわれる。だからそれが10円以上という”目利き”が価値を説いたとしてもそれが社会一般から認められる価値であるかといえば必ずしもそうではない。下手をすると自販機などではエラーで釣り銭出口に直行などということさえある。やはりこの場合は価値は10円ということになるだろう。 もうひとつの問題として、
■マーケットを整備して社会的な認知度を拡大する必要 となると、古材なども限られたマーケットである限り、世間一般の認める価値とすることは現段階では難しいだろう。とはいえ、古材の場合、物にもよるが現在では入手が難しいような材料もあったり、建築でも工法などで希少性が認められるものがあり、こうした価値が認められる土壌ができれば、貴重な物が無駄に捨てられてしまうようなことは減るだろう。 一般に価値が認められないところに強引に価値をつけることは難しいが、本来のプロパティを知って貰うことによって価値が適正に認められる環境を作ることは決して誤りではないだろう。 評価人は目利きである必要はないが、本来の価値を見つけ出す端緒には敏感であるべきだろう。
フロンティア資産評価研究会 松浦 英泰
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